情熱は厄介1

  • 2018.09.10 Monday
  • 16:11

 

平成30年9月10日(月) 僧侶大鐵

 

 最近、スポーツ選手が指導者の暴力や理不尽な命令で追いつめられている報道がされておりますが、この話題が上がる度に「昔は・・・。」「今は駄目。」など時代の話をしたり、「熱い指導が行き過ぎた結果を招いた。」など真面目にしてきた指導者を擁護するような発言。「選手は純粋に競技に専念してきたから、かわいそう。」などと選手が潔白だという同情が起きる。真実は一体どこに行ってしまったのでしょうか?

 この情熱という厄介な存在に人々は魅了されております。報道でもどうしても意見が偏った方向ばかりに行き、「指導者は情熱を持って指導すれば選手はついてくる。だって選手は純粋なんだもの。直向きに競技を取り組んでいるんだもの。」よく分からない回答に落ち着く。

 私は昔からこの「情熱」「純粋」という言葉に違和感がありました。はっきり言って嫌いでした。そのような発言に一歩引いてみておりました。冷めた雰囲気があったかもしれません。だから、私がこのような態度をすると「やる気あるのか。」とよく注意を受けました。この態度が悪ではないかと思うようになり、取り敢えず、周りに合わせて、情熱のあるふりをしたり、かっこいい言葉を言ったりしました。私のことを理解てくれる人と中々巡り合わないまま、高校を卒業し、予備校に通いました。そこで生徒のお世話係チューターに言われた言葉が「予備校に行って努力することは決して褒められたことではない。現役で受かった方がいいに決まっている。楽して生きられるならそれに越したことはない。」と言われました。その時、どこで努力するかが大切なのではないかと思うようになりました。

 大学に入ってから、頑張るところを自分で見極め、其のお陰もあって色々な経験が出来ました。

 その話はまた後日・・・。

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