新年度ですが・・・永平寺の話です。

  • 2014.04.09 Wednesday
  • 10:23
永平寺の建物の造りは七堂伽藍といいまして、7つのお堂に分かれて立っております。それ以外にも建物はありますが、今回は永平寺の建造物を紹介しましょう。

〇殻隋併位隋法未気鵑發鵝・・・永平寺の玄関。修行僧が入門するときと下山するときにしか通れません。庭の掃き掃除するときは脇の出入り口から出入りします。例外はありません。門には四天王様が奉られております。山門の上は羅漢堂があります。毎日11時頃にお経を読みます。1・15日には羅漢拝が行われます。

東司(とうす)・・・トイレのこと。東にあるトイレは東司。西にあったら西浄(せっちん)。修行では三黙道場と呼ばれる尊い場所の1つ。首座(修行僧のリーダー)になると。三・八日の掃除のときは必ず掃除しなくてはならない。

A瞭押覆修Δ匹Α・・・修行僧が修行するためのお堂。坐禅は勿論、食事、睡眠まで行う。三黙道場と呼ばれる尊い場所の1つ。この中には例外を除き修行僧しか入れません。入るときには儀式が御座います。

な殿(ぶつでん)・・・お釈迦様の木像が安置されている場所。他には達磨大師様像、永平寺唯一の檀信徒と言われている三菱の創始者岩崎弥太郎の位牌もあります。永平寺の公用車には三菱自動車が使われているのはその関係か?

ニ‘押覆呂辰箸Α・・・法要を行ったり、法話を行うお堂。道元禅師様の木像もありましたが。今は承陽殿という離れに安置されています。

Ω鳳 覆いん)・・・6階建ての建物。地下には掃除用具を管理する直歳寮(しっすいりょう)があります。
・1階は典座寮(てんぞりょう)という厨房があります。
・2階は仏具や修行僧の日用品の販売、管理を行なっております知庫寮(ちこりょう)があります。
・3階は永平寺の行事や運営に関わる会議を行なったり、修行僧の人事に関わる業務を行なっている監院寮(かんにんりょう)があります。
・4階、5階は倉庫となっております。

浴司(よくす)・・・お風呂のこと。4と9のつく日に入浴します。5日に1回です。夏の暑い日や重労働した日は淋汗(りんかん)といって汗を流す程度ならお風呂に入ってもいいですよ。という日があります。

≪つづく・・・≫

永平寺は新到和尚(新入りの修行僧)さんが上山し

  • 2014.03.13 Thursday
  • 16:55
 最近、漫画『味いちもんめ』に永平寺のことが紹介されていました。普段参拝者が入れない典座寮(厨房)まで描かれていましたので、恐らく以前に作者が取材で特別に入れてもらえたのでしょう。とにかく懐かしかった。

 毎年2月中旬から4月にかけて福井県永平寺では新参の修行僧の受け入れに忙しい。ワシも平成13年に上山しました。そのときは本当に右も左も分からず、言われた通りにすべてを行うしかありませんでした。言葉が永平寺でしか使われないものが多く分からない。日常生活や衣の着方まで作法があるもんですので、その通り行わないと怒られる。もうてんてこ舞いでした。

簡単に永平寺の用語を解説しましょう。パート1

暫到和尚(ざんとうおっさん)・・・見習いの修行僧。上山から5月(約三ヶ月間)の間そう呼ばれる。5月に新到掛搭式(しんとうかたしき)を行い、見習い期間を終える。

新到和尚(しんとうおっさん)・・・1年目の修行僧。スリッパが白い。姿が初々しい。

古参和尚(こさんおっさん)・・・2年目以上の修行僧。スリッパが黒い。姿が堂々としてくる。顔が凛々しくなる。

客行和尚(かあんおっさん)・・・暫到和尚の研修期間の教育係のリーダー。

役寮(やくりょう)・・・元修行僧が修行僧の教育と永平寺の運営のため選任される。50歳以上が多く、老師(ろうし)と呼ばれる。学校で言うところの教員。衣が茶色。        

猊下(げいか)・・・永平寺の住職。貫主(かんしゅ)、管長(かんちょう)と呼ばれることもある。ちなみに副住職は副貫主としか呼ばれません。

続きは次回にこの意味が分かりだすと永平寺に参拝する楽しみが出来ますよ。

2014年 2月6日 僧侶 大鐵

  • 2014.02.06 Thursday
  • 12:03
来るなら来い 高祖承陽大師(終)

 峰の色 谷の響きも 皆ながら 吾が釈迦牟尼の 声と姿と

これは永平寺のことを詠んだ道元禅師の道歌です。永平寺で坐禅をしていると、朝は「ピーピー」と小鳥が鳴き、昼は日光が優しく照りつける、夜は「ブッポウソウ」と木葉梟(このはずく)が鳴きます。

 1246年に永平寺を開山して6年、色々なことがありました。鎌倉幕府のお膝元鎌倉に呼び出され、北条時頼と会見したこともありました。弟子が勝手なことをし破門したこともありました。夜の坐禅の度に修行僧に説法をしたことを一冊の本にした者もいました。弟子たちは決して多いとは言えませんでしたが、この深山幽谷にまで足を延ばし修行をしに来た志は誰にも負けないと自負しております。

 1252年病に倒れ、弟子達にお釈迦さま最期の説法『八大人覚』をお説きになる。1253年永平寺を去り、京都の覚念邸にて療養生活に入る。治療の甲斐も空しく、9月29日に入滅される。享年54歳であった。

辞世の句(遺偈)

五十四年
照第一天
打箇ボツ跳
触破大千

無覓渾身
活陷黄泉
(私の人生はひたすら第一天、すなわち仏法を求め照らし続けてきた。この命この場から飛び起き、この迷いの三千世界をぶち破ろう。ああ。全身求めるものはもうなにもない。この人生で見続けてきた仏法を見続けてあの世に行こう。)

 それから750年後
平成14年、今年は道元禅師様が入滅してから750回大遠忌であります。私は今、永平寺町の前にあるトンネルを抜けようとしている。いつもここを抜けると何だか故郷に帰ってた気持ちになる。深山幽谷での集団生活、良い事も悪い事も全て思い出だ。トンネルを抜け、天山が見えてきた。少しずつ門前町に近づく、私は胸がキュンとなってきた。田畑と永平寺川を越え、急カーブを慎重に曲がると「ようこそ永平寺町へ」の看板が我々を向かい入れる。さあ、門前町に到着だ。かいど、東喜屋の看板が良く目立つ。もう永平寺だ。『杓底の一残水』が私を来い来いと呼んでいる・・・。さあ、修行の再開だ。(終)

2014年 2月5日 僧侶 大鐵

  • 2014.02.05 Wednesday
  • 13:42
来るなら来い。高祖承陽大師

 帰国の途に着いた道元禅師様。明全禅師のお骨を抱いて、元居た建仁寺に行くことにした。そこで、そこの修行僧たちが興味深く道元禅師の下に集まってきた。
「ねえねえ、道元さん。宋の国はどうでした。」
「何かお土産はありませんか。」
「どんな悟りを開いたのですか。」
口々に道元禅師に質問してくる。そうしたら、たった一言こう言い放った。
「眼横鼻直(目が横に付いておる。鼻は真っ直ぐ付いておる。あるがまま。)」
それを聞いて修行僧達はポカーンとしてしまった。そして、道元禅師はその場を静かに立ち去った。

 暫く、建仁寺で修行をしたが、その時、自分のお寺を建てようと考えておりました。起業の準備を着々としていたに違いありません。その証拠に「普勧坐禅儀」という坐禅の心得(マニュアル)をまとめている。そして、数年が過ぎ、何が決め手であったかは分かりませんが、建仁寺を下山しました。

 まずは、深草の安養院に入山し、「正法眼蔵」の執筆を開始します。
1233年(34歳) 越前(福井県)志比庄の地頭波多野義重を開基(お寺のスポンサー)とし、宇治に興聖寺を建立し布教を始めました。ここのところは久我家の力が働いたと思われます。
翌年 一番弟子になったであろう懐奘さんが弟子となる。この懐奘さん実は日本達磨宗のリーダーでした。布教に難儀していた日本達磨宗を救ったのが道元禅師でした。1241年にほぼ全員が興聖寺に上山し、道元禅師の弟子となりました。

 しかし、翌年他宗の僧兵達から反感を買いました。
「最近、出来た宇治のあの寺、僧侶をたくさん集めやがって何を企んでやがる。如何わしい新興宗教だ。うちに上納金も納めに来やしねぇ。ちょっと懲らしめてやるか。」
その僧兵たちが興聖寺に攻めてきました。武器を一切持っていない道元禅師たちは逃げるしか為すすべがなく命からがら逃げました。そして、波多野義重の所領内である越前志比庄まで逃げてきました。ここで大きな味方を得ることが出来ました。それは白山信仰の信者。今でも永平寺の飲み水はは白山水であり、修行僧のお守り龍天軸の巻物には白山権現が書かれてあります。6月には永平寺の行事で白山に拝登し、永平寺町の門前町に白山神社があり、4月頃に法要があります。

 何はともあれ越前に永平寺を建立しました。最初は大仏寺と呼ばれ、後に吉祥山永平寺と改名されました。1246年のことでした。道元禅師47歳の時でした。よく言えば深山幽谷、しかし、実際は山奥でした。なぜここにお寺を建立したか?それは本当に修行する志しがあるものしか受け入れないことの表れだったともいえます。
「修行したい者よ。来るなら来い。ワシはいつでも待っておるぞ。」

2014年 1月 30日(木) 僧侶大鐵

  • 2014.01.30 Thursday
  • 14:56
来るなら来い 高祖承陽大師

道元禅師悟りを開くエピソード

如浄禅師の下、修行を始めて2年目28歳の時、夜、坐禅をしていましたら、一人の修行僧が居眠りしておりました。如浄禅師は始め、蝋燭を増やして室内を明るくしました。それでも起きないので、鐘をガンガン鳴らしましたが、起きない。いよいよ、如浄禅師は履いていたスリッパを手に取り、その居眠りしている修行僧の頭を叩きました。流石に起きた修行僧に向かって一言

如浄「おい。このお寺を寄進してくれた王さま、その家来は公務の時寝ているか。布施をしていただく農家の方々は畑仕事の時居眠りしていて畑が耕せるか。そんな人たちの思いを無駄にするでないぞ。その人たちのお蔭で蝋燭が手に入り、鐘が供えられる。食事も出来ることを考えろ。坐禅とは身心脱落じゃ。」

その時、道元禅師はハッとなった。「坐禅とはすべからく身心脱落・・・・・・・。」全ては坐禅だ。生活は坐禅だ(多分)。
後日、如浄禅師に報告(これを独参という)に行きました。そうして、印可状を頂き、何日かして帰国することとなりました。
 

2014年 1月30日(木) 僧侶 大鐵

  • 2014.01.30 Thursday
  • 14:25
来るなら来い 高祖承陽大師

無事、中国(当時は宋)の寧波に着いた。明全禅師は太白山天童景徳寺に入りましたが、道元禅師は東大寺の戒律を受けていないため、所謂、無免許僧侶として扱われたものですから、船にて待機となりました。「ほら、いわんこっちゃない、東大寺で授戒をしておけばよかったのに・・・。」だがその時、ある老僧と出会いました。

港の市場に椎茸やら昆布やらを買出しにみえた老僧でした。その老僧は阿育王山のお寺で典座(料理長、炊事当番)をしている老僧でした。色々説がありますが、そのときに様々なお話や問答をしたと思います。最後に

道元「まだ、あなたと話がしたいどうか、今晩ここでお泊り願いますか?」
老僧「いやいや、明日はお祝いのうどんを作らねばならない。その仕込みにもう帰らんと間に合わんよ。」
道元「そんなの一緒に来た若い僧侶に引き継いで任せればいいではないですか。宿泊費は出しますので。」
老僧「うどんを作るのが私の修行だ。お主は修行とは何か、お経とは何か分かってないですな。カッカッカッ(笑)。」
と言って帰ってしまった。道元禅師はなぜこのようなことを老僧が言ったのか分からなかった。
何とか景徳寺に入り、修行を始めた道元禅師はそこで修行しつつも他のお寺にも参拝に参っている。そして、2年後26歳の時、運命の出来事が起きる。

良い知らせと悪い知らせがありますがどちらがいいですか?人は尋ねられると大体「悪い知らせから。」いう人が多いので悪い知らせから、道元禅師の後見役でした明全禅師様が遷化されます。命日は5月18日で享年42歳でした。火葬した後お骨は帰国の時に一緒に持ち帰ります。

それより、約3ヶ月前に如浄禅師が新しく景徳寺の住職となり、道元禅師は如浄禅師のお言葉に尊敬し、また、如浄禅師も道元禅師を見て何かを感じ取った。新たな師弟関係の誕生の瞬間でした。そこで道元禅師は悟りを開き、印可状を頂く。28歳の時である。
とその前に時間を少し戻そう。

エピソード‘燦義技佞勉強していたら、ある僧侶が「何のために修行を行うのか。」と聞くので、
道元「困っている人々を救うためです。」
ある僧侶「救ってどうするのじゃ。」
道元「仏教の教えを広めるためです。」
ある僧侶「それでどうするのじゃ。」
道元「・・・・・・。」

エピソード
夏の暑い昼間に老僧が椎茸を中庭で干していました。

道元「そこで何をしているのですか。」
老僧「わしは典座で、椎茸を干しておる。」
道元「そんな重労働、もっと若い者に任せればいいではないですか。」
老僧「これが私の役目、修行である。他の誰にも譲れない。」
道元「それなら、夕方とかモット涼しい時にすればいいではありませんか。」
老僧「そんなことしたら、椎茸がしっかり乾かない。今しかないでしょ。今でしょ。」
林修先生より早くこの言葉を言った無名の老僧。その一言で、道元禅師修行の意味が一気に分かった。修行とは写経や先人の本を読むことでは無い。日々の生活の中にこそ隠れているものだ。役職や位が上だからといって、今までしていたことをしないことは間違っている。自分のことをしないのは間違っている。日々の積み重ねだ。私はお経の功徳も分かっていなかった。
それからというもの道元禅師は掃除や日常の生活の全てを怠らないようにみんなと同じことを行った。 
 

2014年 1月23日(木) 僧侶大鐵

  • 2014.01.23 Thursday
  • 13:58
来るなら来い。永平寺高祖承陽大師
中国へ留学


 臨済宗総本山 建仁寺に修行することになりました道元禅師は住職の明全禅師に非常に気に入られました。そこではお経を覚え、仏教の教義を学び、坐禅に打ち込む日々。その当時は1219年に承久の乱が起こり、世の中は大変乱れておりました。親をなくした孤児。飢えに苦しむ人々。不景気による貧困。このような光景を見るうちに道元禅師は禅の教えで何とか人々を救えないかと思いました。

「いくら勉強しても救う手段が見つからない。そうだもっと本格的に禅を極めなければならないのだ。禅の本場に行こう。達磨大師様が少林寺を居転に中国に禅を広めた。ここに行けば何か見つかるかもしれない。よし、私は行く、中国に禅を学びに行く。」

道元禅師は中国に留学に行く旨を明全禅師に相談しました。
「よいか道元、今、中国にお前を行かせるわけには行かない。私は東大寺で戒律を受け僧侶なった。東大寺の戒律を受けなくては中国のどこのお寺に行っても相手にされない。あの空海様も最澄様もそのことで非常に苦労した経験を持っておる。まずは東大寺に行ってそこで戒律を授かってくるのだ。」

明全禅師は非常に的確なアドバイスをしたのですが、道元禅師は
「お願いです。どうか禅を学んで、人々を救いたいのです。この気持ちは抑えられません。お願いします。」
明全禅師は渋々、自分も前から中国には行く準備はしていたので、付き人として同行する許可を与えました。後、道元禅師の背景にある久我家の資金援助も期待したかもしれません。この年道元禅師24歳(1223年)、建仁寺で修行して6年目でした。
中国行きの準備を整えていよいよ出発という時に明全禅師の得度の師匠である明融阿闍利が病の床に臥せり、明日をも知れない命となりました。どうしようお見舞いに行くべきか否か、迷いに迷っていたのは弟子達で明全禅師は泰然自若に構えておりました。そして、弟子達に問答を掛けました。

「私は中国行きを諦めて、師匠のお見舞いに行き、最期を看取ったほうが良いのか?」
多くの弟子達は「お見舞いに行くべきです。でないと師匠の恩に報いることは出来ません。」と言いました。
でも、明全禅師は「否、私は師匠のお見舞いは行かん。例え、看病しても師匠の病は完治するわけではない。ただ、来てくれてありがとうと言われるだけである。それよりは中国に行き、仏教を禅を学ぶことこそ師匠の恩に報いることでは無いのか。だから、私は中国に留学する。」

そうして、明全禅師は道元禅師と共に中国(当時は宋の国)に向けて出航するのである。

2014年1月17日(金) 担当僧侶 大鐵

  • 2014.01.17 Friday
  • 17:33
来るなら来い。永平寺高祖承陽大師

1月26日道元禅師の誕生日
1月26日は永平寺をお開きになりました道元禅師の誕生日です。
誕生:1200年1月26日
遷化:1253年9月29日(満54歳)
戒名:高祖承陽大師(こうそじょうようだいし)
出身:京都 貴族(久我家)
功績:福井県大本山永平寺を築いた。曹洞宗の礎を気づいた僧侶。歯磨きを世に伝えたかも。自分のことは自分で行うことを日本人に広めた人。

道元禅師は京都にて貴族の久我家に生まれました。幼い頃、両親を亡くされ、親戚に預けられた。13歳の時出家得度して、比叡山延暦寺で修行されました。実はこの時期は延暦寺から、卒業された僧侶たちが市井に様々な教えを説き、新宗教が生まれだした時期でもあります。いわゆる鎌倉仏教の始まりです。浄土宗の開祖法然上人、臨済宗の開祖栄西禅師、浄土真宗の開祖親鸞聖人、日蓮宗の開祖日蓮上人、時宗の開祖一遍上人。まさしく世の中、新宗教のイノベーションとでも言いいましょうか!?

道元禅師は自分が比叡山で修行しているうちにある疑問が浮かんで参りました。「本来本法性 天然自性身」(もともと人間には仏の心が備わっているのだから、あるがままが悟りを開いている、仏となっている。)一見良いことのように思われますが、それをいいことに修行を怠る僧侶もいて、道元禅師はこれではいけないと思いました。

様々な高僧にこの質問をぶつけましたが、どの回答も道元禅師には納得いくものではありませんでした。さすが貴族の名家出身怖いもの無し。修行僧の新人でありながら目上の人と堂々問答を仕掛けるとは恐れ入りました。実は修行といっても貴族出身の道元禅師は掃除や炊事当番はほとんどしなかったと思われます。結構好待遇でした。このことが後々、中国で留学した際、大きな発見につながりますが、それはそのときにでも話したいと思います。

数ある高僧を廻り、ようやく自分の疑問を解決してくれそうな高僧と出会いました。それは建仁寺住持であり臨済宗の開祖である栄西禅師様でした。この人の下で修行すれば何かを得られると思いました。これが道元禅師と坐禅の出会いでした。

◆栄西禅師様ホッとする話
,△訥鏤劼「建仁寺は賀茂川に近いのでいつか洪水が起きたら流されるでしょう。移転しましょう。」と提言したら、
栄西禅師様「坐禅はお寺の中でしか出来ないのか。今、ここで修行できることは縁のなせる業である。今、修行できる事を感謝せよ。」

反物の布施を頂いたある信者さんから「寄付に渡した反物をお金に替え、明日のご飯がないので、それで賄いたいのですが返してもらえませんか。」と言いに来た。栄西禅師様すぐにその反物を渡しました。弟子が「え〜何でそんなことするのですか。そんなことしたら我々が食べるものが手に入らないじゃないですか。」
栄西禅師様「困っている人を助けたのだ。それが我々僧侶の勤めでしょう。それで我々が飢え死にしても大したことがない。それより僧侶としての勤めが行えないことがもっと問題だ。」

こんな栄西禅師様の下で修行できると思ったのですが、出会った翌年に御遷化され、道元禅師が建仁寺に修行に上山する頃にはこの世には居りませんでした。・・・(つづく)

2014年1月15日(水) 僧侶 大鐵

  • 2014.01.15 Wednesday
  • 17:38
1月9日は一休さんの日だよ、語呂合わせ。

皆さん、今回は一休さんについて書きたいと思います。誕生日は2月1日で命日は12月12日ですが、1と9がつくことで1月9日が一休さんの日、頓知の日となっております。それだけ、色々な人に愛された一休さん、尊敬より親しみ、愛らしさを感じる一休さんはどんな人だったのか?ちょっとまとめてみましょう。

〔燭犯鷯錣某靭に向き合った僧侶。「門松は冥土の土産の一里塚めでたくもあり、めでたくもなし」「世の中は起きて稼いで、寝て喰って後は死ぬのを待つばかりなり」「大きな和紙に「し」という文字を書いた」

△海鵑平佑任靴燭ら、周りの僧侶達から嫌われた嫌われた。人生の半分以上は旅でした。よく言えば遊行ですが、宿無しのホームレス状態。お寺を渡り歩いていた。

しかし、在家の方々、特に女性から好かれた。女性を非常にリスペクトしていた面がある。女人禁制の場所を否定するような歌を残している。「女をば 法の御蔵と云うぞ実に 釈迦も達磨もひょいひょいと生む」。水浴びしている女性に感謝のお拝をする。こんなエピソードが残されているのであるから、非常に女性にもてたし、自ら慈悲の手を差し伸べたりした(要はナンパした)。

ぜ分に素直な一休さん、正直であるがゆえに空気が読めない。その場の空気より本質を大切にした一休さん。
・正月に髑髏の杖を突いて京都市中を廻って「用心、用心。」と言った。一つ歳を越すということは死に一歩近づいたという意味は今だから分かること。その当時の人から言わすと「こんなめでたい正月なんてことしやがるんだい。」と石を投げて中傷したそうな。

・庄屋の法事に呼ばれた時、地味なお袈裟と衣を着ていくと、「お前なんぞ一休さんじゃない。出てけと。」云われる始末。仕方ない当時は写真なんてなかったから、庄屋さんも服装を見て判断するしかない。でもね一休さんはその後、金襴のお袈裟と緋の衣を身に付けてきたら、どうぞと座敷に案内される。そしたら、一休さんその衣とお袈裟を脱いで綺麗に畳むと床の間に置きました。「どうやら呼ばれたのは私ではなくこの衣とお袈裟でした。」そしてそそくさと帰ってしまう。人は見かけで判断するなという教訓ですわ。

イ海鵑淵┘團宗璽匹多いもんだから、江戸時代に「頓知小僧一休さん」の本や講談、落語が流行るは流行る。そのお蔭で庶民から愛された一休さん。80歳で大徳寺の住職となりました。この時、大徳寺はボロボロでした。何とかしないとと思いまして寄付を募ったところ、あっという間に寄付が集まる。これこそ庶民のパワー。1円も1億集まれば1億円。木材も自分の舟を差し出す人まで現れる。「金のある人は金を出し、力や技術がある人は力を出し、何もない人は元気出す。」。そのお蔭で大徳寺は再建され、後々、織田信長の葬儀を行えるまでになりました。

88歳で遷化されますが、その際、弟子達に「何か困ったことがあればこの箱を開けなさい。」と言ってお亡くなりになりました。その後、お金に困ったのか、弟子達がその箱を開けたら、金銀財宝があると思いきや手紙が一通ありました。その中身を読むと「心配するな何とかなる。」 頓知という智恵で難局を乗り越えた一休さんらしい最後の問答でした・・・
作麼生・説破)

2014年 12月19日(木) 僧侶 大鐵

  • 2013.12.19 Thursday
  • 17:44
苦労と不幸は紙一重

 今期のドラマがどんどん最終回を迎えております。今年は本当に面白いドラマが多かったです。現実でも・・・。

 私が特に興味を持ったのは、1つは『八重の桜』。このドラマのテーマは「いくら負けても希望を失うな。」だと思います。会津藩は戊辰戦争で敗戦はしたが、生き残った人たちは非常に頑張って会津の魂を見せよう、誤解を解こうとしたと思います。これが今日の東日本大震災ことと絡めているのではないかと思いますが。そのドラマの中で八重さんが「苦労と不幸は違う。」と言ったシーンがありましたが、それが今でも忘れません。何でこんなことを今まで気が付かなかったのだろうと思うと恥ずかしい位です。苦労と不幸は紙一重でほとんど同じ意味だと思っておりまた。今からでも見方を替えていこうと思いました。

 もう1つは『リーガル・ハイ』。これは「正義とは、幸せとは何か」を通して、今の裁判のあり方、弁護士のあり方を問うたドラマだと思います。私は世界遺産の村の話(第8話)が非常に興味深かった。確かに世界遺産に富士山が登録され、無形文化財に和食が認定されたのが、一概に私は喜べませんでした。批判めいたことは避けますが、富士山に住んでいる人、富士山で仕事をしている人は今の状態から下手に手を加えられなくなるのではないかと思います。これ以上は言えません。和食も同じようなものですわ。料亭も然り、家庭の味も然り、になってきませんか。これ以上の発言は控えさせて頂きます。何はともあれ世界から注目集めるのは非常に嬉しいです。私の学生の頃は日本風=ダサいとよく周りから言われた時期もありましたわ。私は時代劇好きが高じて、和風が凄く好きでしたので、本当に嬉しいです。

 だから、幸せ、不幸などというものは必要ない。そんなことを言うから気が滅入ってしまう。「雪裡梅花只一枝(せつりのばいかただいっし)」。(意味)「枝に雪が積もるくらい厳しい冬を乗り越えた後に春が来て梅の花が咲くように、修行は辛く厳しい時もあるが必ず悟りが開けるときが来る。でも、また冬のように厳しい時期が巡ってくる。これが悟るということである。」皆さんの生活に当てはめるとどんな生活をしていても必ず冬のような厳しい時期もあれば春のような暖かい、優しい時期もあると言うことでしょうか。

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